『BLEACH』第625話「LIVING JAGUAR」の感想・考察
こんばんは。ほあしです。
今週の『BLEACH』の感想です。
今週のタイトル「LIVING JAGUAR」は、「生きていたジャガー」とでも訳せるでしょうか。言うまでもなくグリムジョーのことを指しています。「死んだと思ってたか?」とグリムジョー自身がわざわざ口にしているところからも明らかです。破面篇における一護との戦いで死んでいても何らおかしくはなく、かといって「間違いなく死んだ」と断定できるような描写をされたわけでもなく、それどころか(前回の記事で説明したように)生存を仄めかす描写が随所にちりばめられていた彼がやはり生きていた、ということです。
また、「JAGUAR」という単語にも注目しておきたいですね。『豹王(パンテラ)』という名(panteraはスペイン語で「豹」の意)の刀剣解放を持つ彼ですが、やはりそのモチーフとして動物の「ジャガー(jaguar)」も含まれていたらしいということがここで初めて明確に示唆されています。「ジャガージャック」という名は”Jaegerjaquez”と表記するのですが、ここに表れている”jaeger”という綴りはスイスの時計メーカー「ジャガー・ルクルト(jaeger-lecoultre)」の綴りから引用したものであり、動物の「ジャガー」との関係は必ずしも明示されていませんでした(豹とジャガーはしばしば混同されますが別の種です)。それがここにきてようやく「グリムジョー=ジャガー」という構図が提示されたわけです。
(BLEACH OFFICIAL CHARACTER BOOK2『MASKED』264頁)
なぜわたしがグリムジョーとジャガーの関連にここまでこだわるのかと言うと、ジャガーという動物が、アステカ文明においては「神の戦士」を象徴する動物(いわゆる
トーテム)の一つとして信仰の対象になっていたからです。アステカでは「ジャガーの戦士」や「鷲の戦士」という名前を冠したエリート貴族の戦士団が組織されていて、それぞれの名前にちなんだ装飾をして戦いに臨んでいたそうです。
この記事で紹介したように、〈破面篇〉における藍染の軍勢は、アメリカ大陸を侵略しようとするスペイン帝国を模したものであると考えることができます。このアイデアの中でわたしは、「白い肌を持つスペイン人の軍勢を目にしたアステカの人々は、アステカの神ケツァルコアトルの軍勢が帰還したのだと勘違いした」という逸話を紹介しました。つまり、藍染の麾下にある破面たちは、まさしく「神の戦士」の立ち位置になるわけです。
アステカで「神の戦士」の象徴とされたものはジャガーのほかにもありまして、先に述べた「鷲の戦士」のほかに、「コヨーテの戦士」「髑髏の戦士」という名の戦士団も存在したそうです。そして、ジャガー・鷲・コヨーテ・髑髏というモチーフの全てが、破面の軍勢の中に存在しているのです。
いかがでしょうか。このなかで『空戦鷲(アギラ)』という名の力を持つ「鷲の戦士」アビラマ・レッダーは十刃ですらありませんが、アステカにおける「鷲の戦士団」もまた、他の戦士団よりもやや低い身分の貴族で構成されていたそうで、捕虜の確保など小さな仕事で功績を重ねることで精鋭の戦士団へ昇進していったそうですから、周りに比べて実力的に一枚落ちるくらいの方がむしろ相応しいと考えることもできそうです。
こういうふうに見てみると、「〈破面篇〉はスペイン帝国による新大陸侵略を模したものである」という読み方の説得力がより補強されたのではないかと思います。
話が大きく逸れました。殺気立つ一護とグリムジョーの間に大人ネルが割って入ります。やはりネル・ドンドチャッカ・ペッシェらも浦原と行動をともにしていたようですね。「3獣神」の姿が見えないのが気になりますが、彼女らはハリベル救出関係で別行動をしているのかもしれませんね。
それにしても、「大人と子供とを自由に行き来できるようになる腕輪」とはまた素晴らしいアイテムです。薄い本が最高にアツくなります。織姫が危機感を覚えるのもやむなしです。ネルは一護に対するときだけは幼児的な振舞いを隠しませんが、これが彼女のもともとの性格なのか、ノイトラに頭を割られて幼児化してしまったことによる変節の結果なのかは解釈が分かれるところだと思いますが、どっちにしてもかわいいのでどっちでもイイですね。
あと、これは前々回あたりの感想から繰り返し言い続けていることですが、今週の一護とネルの関係のように、「人間と虚の間でも親愛の情が生まれうる」ということは繰り返し確認しておく方がよいと思います(もちろん一護はただの人間ではありませんが)。これは人間と虚だけでなく、死神と虚、死神と滅却師、そして今回リルカと雪緒が再登場したことによって示された死神と完現術者という関係についても同様です。相容れないはずの陣営に与する者同士であっても互いに手を取り合うことは可能である、ということが、ここ数回にわたって繰り返し示されています。
浦原がリルカと雪緒を呼び寄せていたのは、一護たちが霊王大内裏から叩き出されてしまった際に再び舞い戻れるようにするためのようですね。前回打ち込まれていた杭もそのための目印だったようです。
今回、夜一の説明の中に登場した「叫谷(きょうごく)」と呼ばれる霊子の空間は、『BLEACH』劇場版第一作『劇場版BLEACH MEMORIES OF NOBODY』(2006年)に登場していたものです。映画では「輪廻の輪から外れてしまった魂魄が断界内で集合することで生まれる特殊な空間」と説明されていますから、夜一の説明とも概ね合致します。これをリルカが集め、雪緒が新たな空間として仕立て直したということでしょう。ちなみに、今回雪緒がこうして部屋やレールを創り出すことができているのは、彼が銀城から一護の完現術能力を貰い受けているからこそなんですよね。
一護の力を貰い受けなければ、雪緒の能力では「現実の世界に別の空間を創り出す」ことなどできませんでした。そもそもは「ゲーム機を媒体にした仮想空間に任意の対象を収納する」という能力でしたから、大人数を収容する空間をゲームの中に創るだけなら可能かもしれませんが、それでは黒腔を移動する手段が無いわけです。これまで繰り広げられてきた戦いの全ての顛末がこの最終決戦へ繋がっていくような感覚は、ファンとしては本当に堪りません。あとこれ書き忘れてましたがリルカの服がめっちゃかわいいですね。あまりにもあざとい、だがそれがいい、という感じです。本当に堪りません。
また、せっかくリルカが登場してくれたのでついでに一つ。〈死神代行消失篇〉のラストシーンの描写にまつわる「ある解釈」の荒唐無稽さについて言及しておきます。銀城を中心とした戦いのあと、浦原によって保護されたリルカは、一護・チャド・織姫らに直接別れを告げぬまま姿を消します。リルカはどこかの建物の屋上から空座町を見下ろしつつ、銀城・一護・チャド・織姫らに対して心のうちで感謝の意を表し、そのまま静かに空座町を去る、というものです。
このシーンが世に出て以降、しばしば以下のような荒唐無稽な解釈(とすら呼べないような甚だしい事実誤認)がネット上で見受けられます。
それは、「リルカは飛び降り自殺をしたのだ」という、本当に全く意味不明な解釈です。こういう捉え方は作品を解釈する以前の段階に問題があるんですね。つまり、作品内で提示された情報の整理すらしないまま、その時々の絵を直感的に見ることのみによっておおざっぱに解釈してしまっているんです。
どういうことかと言うと、建物の屋上から姿を消す瞬間のリルカの足許を見ると、完現術者が高速移動する際に明滅する完現光(ブリンガーライト)がはっきりと描かれていることが分かります。完現光の発生理由については作品中でしっかりと説明されていることですから、この情報一つを頭の中に入れたうえで、リルカの足許で明滅する光をきちんと目で見て「あ、足許が光ってるな」ということさえ認識できれば、「このシーンのリルカは完現術による高速移動を行なったのだ」ということが解釈の余地なく理解できるはずなんです。先述したような無茶苦茶な解釈など生まれようはずがないんです。
「解釈以前の甚だしい事実誤認」というのはそういう意味です。いま説明したことは、人並みに字が読めて、且つ紙面に何が描かれているかを理解できる人であれば問題なく把握できるはずの情報です。こういう最低限の情報すら満足に拾えていない読者による荒唐無稽な読解が、ジャンルや作品を問わずしばしば見受けられます。その内容が良かれ悪しかれ、物語作品に対して何事かを言おうとするのであれば、その読者(あるいは視聴者)として最低限理解しておかなければならない情報について、慎重のうえにも慎重を期すような姿勢が望ましいのではないかと個人的には思っています。
自分の読解力をあまり過信して「自分なりの読み方をしてこう受け取ったんだからこの受け取り方は自明に正しいのだ」みたいな意識を持ってしまうと、自分が見落とした情報を第三者から指摘されたりしたときに逆ギレしてしまいがちなのかな、と。自分自身に対する少しの懐疑は大事だと思うのです(疑い過ぎは毒ですが)。
いや、もちろん、大雑把な読解のまま大雑把な感想をネットの海へブン投げるというのも個人の自由ですから、どうしてもそうしたい人はそうすればいいと思うのですが、いまのご時世でそういうことをすると、その作品の熱烈なファンから矢弾の嵐が飛んできますから、そのリスクについては引き受ける必要があるわけです。それでもかまわないという人は、どうぞご自分の思うところを自由に述べてゆけばよいと思います。その責任を負うのは自分自身ですが。
閑話休題。
場面が変わって、霊王大内裏で悠然とユーハバッハを待つ親衛隊。ジェラルドは雨竜に対して「不安そうな顔」と言い、ユーハバッハの安否を気遣っているがゆえのものだと解釈しているようです。雨竜もその調子に合わせて応答していますが、この応答の中にリジェとハッシュヴァルトのまなざしを見せるカットが挿入されているところからして、この二人が雨竜のことをやはり全く信用していないらしいことが容易に見て取れますね。
現時点でわれわれ読者が雨竜の考えていることを全く窺い知れず、想像を巡らせるしかないというのは言うまでもないことですが、作中の滅却師らにとっても、雨竜は未だに何を考えているのか分からない不穏分子のようなものなのでしょう。ハッシュヴァルトの見立てでは、この疑心暗鬼はユーハバッハが雨竜の動きを封じるために意図的に生み出したものであろうということですから、雨竜が自身の考えを行動で表さない限り、この疑念は消えないでしょう。
そして、ユーハバッハが霊王の全てを奪い尽くしたらしいことが示されて、今週は幕です。霊王が収められていたはずの物体の中身が空っぽになっていますから、霊王の肉体まで含めて本当に全てを奪い取ってしまったようです。崩玉と融合して神に近づいた藍染のときとは対照的に、ユーハバッハの全身が真っ黒に染まっていますね。「霊王の力の奔流」が「黒い赤ん坊の塊」だったことを思えば、こちらの黒い姿の方がよりその本質に近いのかもしれません。
ただ、本当に「神」に等しい存在として描かれるのであれば、最終的には「白でもあり黒でもある」という、全能性を強調するようなデザインに終着するのではないかとも思うので、この点はまだ注視する必要があるかと思います。このあたり、白と黒の対比をこれでもかとばかりに強調する『BLEACH』という作品に相応しい表現かなと思います。
今週の感想は以上です。
ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました。
それでは。